MarjanとLukasのハイチ訪問記

2010年1月に起こったハイチ大地震の被災者支援のために、地震発生2ヶ月後にチャリティーコンサート”Gemeinsam für Haiti”(皆でハイチのために)を行ったMarjan ShakiとLukas Perman。被災者支援団体J/P HRO Haitian Relief Organizationを創設した俳優・映画監督のSean Penn(ショーン・ペン)との知己を得たことをきっかけに、支援コンサート第2弾”Musicalhits in Wiener Originalbesetzung”(ウィーンオリジナルキャストによるミュージカルヒット)を2011年5月11日にRonacherで開催することを決めた二人は、コンサートに先立ちハイチを訪問しました。Musicalclubのサイトに、5日間の滞在の様子が写真と共に日記形式で紹介されています。

初日、首都Port au Prince(ポルトープランス)の人影もまばらな空港に降り立った二人。観光客の姿はなく、周りにいるのは救援活動に従事する人達と殆どがハイチ人という状況。空港を出るとすぐ、米軍兵士の姿や見渡す限りテントに埋め尽くされた町が彼らの目に飛び込んできます。被災者支援団体J/P HROのキャンプに着いた二人は、Sean Pennが立ち上げたテント村に案内されます。キャンプ地の中には小さな散髪屋や飲み物を売る屋台など、多くの仮設店舗が軒を連ねています。水は殆どなく、ゴミが散乱し、埃と泥にまみれ、貧困が蔓延しているこの地ですが、テント村にはHiltonがあり、そこでは安全と秩序が保たれています。

テント村には55,000人が暮らし、J/P HRO本部では少数の外国人NGOと多くのハイチ人スタッフが政府のような役割を果たしています。毎日55,000人分の新鮮な水を確保することが課題となっており、LukasとMarjanはKassel(カッセル)大学が開発したWasserrucksackというリュックサック型の浄水器を持ち込みました。上部に水を入れると濾過されて下から飲用水が出てくるというこの装置、化学物質もエネルギーも使わずに12,000人分の水を供給できるそうです。

5日間行動を共にする運転手Hyppoliteの出迎えを受けた二人は、車で荒れ果てた道をひた走ります。最初の停車地は倒壊した大統領官邸前。唯一の白人として注目を浴びつつ、援助の手が差し伸べられていないテント村を訪れます。清潔な水もない場所ですが、人々は開放的で友好的です。かつては豪華だったことを偲ばせる礼拝堂を訪れた二人を、子供達が案内してくれます。Tシャツやお菓子をプレゼントする一方で、無力感を覚える二人。運転手が誇らしげに案内してくれた町の中心地には、新鮮な野菜や果物に美しい絵画や手工芸品が並ぶ新しい市場がありました。

夕食は米、調理したバナナと少しの肉。ハイチ人の女性料理人が用意してくれた料理は、Lukasの口に合ったようです。仕事先からキャンプに戻ってきた看護師や教師、建築士といったNGOメンバーは、新顔のLukasとMarjanに驚き、「何をやっているの?」「どのくらい滞在するの?」と質問攻めにします。二人がウィーンでコンサートを企画しており、多くのアーティスト達が参加すること、自分達が支援しようとしている国や団体を自分の目で確かめるためにやって来たことを知ったNGOメンバー達は、自身が属する組織であるJ/P HROの威力に驚いていたそうです。翌朝6時には、既に活動に出ているメンバーがいました。前日昼にMarjanとLukasが訪れたキャンプ内の病院で出会った陣痛が始まっていた妊婦は、夜になってもまだ分娩していなかったのですが、この日の夜キャンプに帰ってきた3人の看護士の話から、無事出産したことを知ったそうです。

朝8時に運転手と共に出発した二人は、内陸部を訪れます。そこで目にしたのは破壊しつくされた町と、バラックに住む人々。二人は世界で最も貧しいと言われるスラム街Cité Soleilを横切ります。表面的にはハイチの他の地区と殆ど変わらないように見えるこの街は、非常に高い犯罪発生率やギャング抗争と究極の絶望が支配されています。地震と津波に襲われる遙か以前から、貧困の淵にある地区なのです。

頻繁に車を降りて写真を撮る二人を、運転手のHyppoliteは注意深く見守りますが、車に傷をつけられることを恐れており、決して車から離れようとはしません。車は彼の誇りであり、生活の糧を得る主要な源なのです。どこへ行っても目立つ二人は、見透かされるような視線を感じますが、笑顔は相手の批判的な眼差しを和らげてくれます。意思の疎通はフランス語や英語、スペイン語で試みます。

海岸沿いには観光客の姿は皆無です。地震以前もハイチは海外からの観光客が訪れる場所ではありませんでした。海岸では現地の人々がバーベキューを楽しみ、砂浜で音楽に合わせて踊っています。ターコイズブルーの海に向かう道に、ゴミや倒壊した家がなければ、心休まる光景でしょう。

J/P HROは55,000人が暮らすキャンプ維持のために、月額24万ドルを必要としています。コンサートの収益金はこの額に見合うようです。

日曜日の晩、二人は運転手のHyppoliteと教会に行きました。オルガンや聖歌隊の代わりにバンドと歌手が音楽を奏でるミサに参加したMarjanとLukasは、絶望の中でも希望を失わないハイチの人々に感銘を受けます。ミサの後祭壇前に招かれた二人に、英語で司会を務める若いハイチ人がミサに参加してくれたことへの感謝の意を表し、二人が故郷で通う教会の名前を尋ねます。答えは勿論St. Stephan(シュテファン大聖堂)。参列者から歓迎の歌を贈られた二人にとって、この訪問は夢のような一時でした。帰りに地震の被害に遭わなかったHyppoliteの家に立ち寄り、家族を紹介されるというおまけもついた夜でした。

翌日は空港で女性ジャーナリストを出迎えた後、前日に訪ねた市場に向かいました。豚や山羊が歩き回り、オレンジの皮が山積みにされ、売り物にハエが飛び回るこの市場に、前日は非常に不快感を覚えていた二人でしたが、市場の中を歩き、人々と話し、笑顔を交わしたこの日に受けた印象は、前日とは違って素晴らしいものでした。

米国人女優Maria Belloによってスラムの中に立ち上げられた診療所で、二人はハイチ人の所長Tinaに会います。彼女を待つ間、好奇の視線にさらされながら手持ちぶさたにしていた彼らに最初に近づいたのは、子供達でした。Marjanが地面に描いた絵を見て、「ハート」「魚」「太陽」等とフランス語で口々に叫ぶ子供達と、いつしかすっかり打ち解けます。警察も好んで立ち入ろうとはしないこのスラムには30万人が暮らしています。僅か50平方メートルの小さな診療所では、虐待された女性や子供達のケアを行っています。同僚から託されたスーツケース一杯の子供服と、Vereinigte Bühnen Wien(VBW、ウィーン劇場協会)が用意したTシャツと帽子の半分はこの診療所に、もう半分はSister Marcellaに贈られました。イタリア人修道女のSister Marcellaは6年前にハイチを訪れ、5年間スラムで医療活動を行っています。地震によって彼女の診療所は壊滅的被害を受けましたが、幾つかのNGOの援助を受けて、大きな病院を建てたSister Marcellaは、寄付金によってコレラ患者のための病棟も建設しました。コレラはハイチでは大きな問題となっています。Sister Marcellaの活動には、海外からのボランティアと共にハイチ人も参加しています。ハイチでの殆どのプロジェクトは、社会活動を通じてハイチ人自身が学ぶことで、国のシステムを長期にわたって作り上げることを目的としています。

Sister Marcellaに学校を案内された二人。Lukasの金髪を触りたがる子供達と一緒に遊び、カメラを渡して写真を撮らせてあげたりします。二人に向かって子供達がかけた”Hey you!”の声は、その後に「そこで止まれ、それ以上行くな!」と外国人兵士達が続けることから広まったと聞かされます。これがハイチにおける白人の呼称なのです。

後ろ髪を引かれる思いでキャンプに戻ったMarjanとLukasは、チームミーティングに臨みます。キャンプで働く人達には、1~2週間しか滞在しない人もいれば、数ヶ月、あるいは僅かながら1年以上という人もいます。スタッフはお互いに自己紹介をし、二人も自分達の仕事のことや、ウィーンで開催予定のチャリティーコンサートについて説明しました。最後にキャンプでのルールとして、シャワーは1分までと言われます。ハイチでは清潔な水は大変貴重なのです。ここの人達にとっては夢でしか叶わないことが、数日後に戻るウィーンでは当たり前のように自分達を待っていることが信じられない二人でした。

6時と言えば、Lukasにとっては劇場入りする午後6時を意味していましたが、ここハイチでは日の出と共に起き、日没と共に眠る生活です。とはいうものの、晩には各地から来たボランティア達と話し込むことが多かった二人。最初からここにいる人もいれば、2~3週間で帰る人もいます。「ここでの1年は5年に思えます」とはキャンプの病院長の弁。

ここに数ヶ月、あるいは何年も滞在することが何を意味するか、数日間滞在しただけで感じ取るのは難しいです。ただ多くの苦しみを見ることは疲労感をもたらすということが分かるだけです。どこから手をつけていいのか分からないほどの状況。車で何時間走ってもひたすら続くテント村、トタン小屋、ゴミ。しかしそんな中でも清潔に装った人々がいます。身だしなみを整えることで、最後の尊厳を守ろうとしているかのように見えます。埃や排気ガスの中で、彼らのシャツは白く輝いています。ハイチの人々の黒い肌に慣れるにつれ、いつしか自分達の白い肌の方が珍しく感じられるようになった二人でした。

4日目、MarjanとLukasは国連キャンプを訪れ、International Organisation of Migration(IOM、国際移住機関)の広報担当者と懇談します。幾つかのプロジェクトについて説明があり、なかでも特にある二つのプロジェクトが二人の心に残りました。一つはハイチ人にとっての情報源であるラジオ網を全土に張り巡らせ、コレラ予防法等の必要な情報を普及させる計画。もう一つはスラム街Cité Soleilの住人達の要望をすくい上げるために設置されたポスト。そこに投函された手紙は、IOMに住人達が本当に必要としていることを伝えてくれます。殆どの手紙は誰かに相談する機会が得られたことへの感謝から始まりますが、そのことによって援助への期待に再び火がつき、そして失望の前で再び消える恐れに脅かされています。国際的な援助は地震後の人々に希望を与えていますが、全容を掴みきれない災害と以前から存在した貧困に阻まれて、多くの人々には今日に至るまで届いてはいません。

余りにも多くの光景や印象、エピソードや人々を目に焼き付けた二人ですが、中でもこの日の朝、Marjanが目にした全てを失った女性の姿は、彼女の頭から離れることはないでしょう。頭の中が様々な光景で混沌としたMarjanは、まず頭の中を整理しないと日記が書けないと漏らします。多くの出来事が起こる中、二人はハイチでの一日一日を贈り物のように受け止め、人々の美しさ、魂の美しさに心打たれています。スラム街Cité Soleilで過ごした二人は、笑顔と挨拶が心を開く鍵だと確信するようになります。人々の言うことに耳を傾け、尊敬を持って接すること。要求したり、命令したりする代わりに、助けの手を差し伸べること。それが始まりなのです。彼らの声を聞けば、何を求めているかが分かります。尊敬の妨げになるような苦しみを新たに引き起こしてはなりません。

熱意と元気に満ち溢れつつも重い心を抱えて、滞在最終日となる5日目を迎えたMarjanとLukas。一晩中降った雨のため、テントは濡れてしまっています。雨期はまだ始まっていないものの、何時間も雨が降り続けば道路は冠水し、ゴミや砂が混じった水が川となり丘を越えてスラム街に到達し、感染症の源としてトタンの小屋やテントの足元に忍び寄ることが、二人にも想像できました。

ハイチで過ごした日々には値段はつけられないというMarjan。初日は何らかの援助が出来る可能性があるという希望を危うく葬り去るところでしたが、旅の終わりに当たり、たとえどんな形での援助であろうと、小さな石を転がすことは出来ると納得に至りました。ハイチの人々は、ただ全て用意が出来たものをあてがわれるのを待っているだけでなく、自身も行動し、復興に加わっています。復興にはまだまだ時間がかかり、資金も不足しています。奴隷として働かされた長い搾取の歴史を経て、ようやく待ち望んでいた自由を予感した矢先に、地震に見舞われ全てを失ったここの人々を、忘れないでいることが重要です。家族や仲間、家や仕事を失い、コレラの脅威と戦わねばならないけれども、長い一日の終わりであっても笑顔でいられる人々を、忘れてはなりません。

苦しみのただ中にあっても喜びを感じ表すことがどうして可能なのか、その問いには答えられないと思うMarjan。そうした人々の姿は、二人の心に最も印象深く残りました。

Lukas達がPort au Princeにいることを知ったある女友達が、音信不通となった彼女の父の昔の友人の安否を調べて欲しいとのメールを送って来ました。その男性が働いていたMercedes Benz-Haitiの総代理店を見つけることは難しくなく、また幸運なことに、彼は今もそこにいました。60歳ほどと思われるその男性は、二人の訪問を受けて驚いたものの、かつてのオーストリアの友人の名前をLukasの口から聞くと、満面の笑みを浮かべ、「1983年だったか、とにかく最後に連絡を取ったのは遠い昔のことだった」と、旧友からの挨拶を喜んでくれました。彼は二人に地震前と今日のハイチの様子を語ってくれました。彼らが写真を撮ったMercedesの周辺は完全に破壊され、まるでテレビや映画、ドキュメントで見る戦場のような光景でした。かつては豪華だった植民地時代の家々には赤い印がつけられ、倒壊の危険性があるものの、避難所として使われています。2010年1月12日を境に、この国は別の国になってしまいました。まさにエンジンが始動しようとしたところで全てが再び静止状態になってしまい、ゼロ時間に巻き戻されてしまったのです。そして毎年ハリケーンの季節が来るたびに、新たな破滅に脅かされるのです。竜巻が人々の頭上にテントを舞上げ、洪水が数ヶ月にわたる努力を無にするのは時間の問題です。

実はこの消息不明となっていたハイチ人の友人は、既に80歳を超えていたことが分かりました。彼の民族を苦しめ、今も苦しめ続けている運命による打撃を、彼自身はそれほど酷くは被っていないようでしたが、彼自身にとってもやはり大変な時期だという説明でした。彼の所有地は、14ヶ月前から8000人もの避難民によって占拠されています。きっとまだこの状況は続くことでしょう。会談の最後は、オーストリアの旧友と再びコンタクトがつながった喜びで締めくくられました。

この日の最後、LukasとMarjanはキャンプ地近くにある音楽・演劇学校を訪ねます。この学校は、スラム街Cité Soleilのような境遇から若い才能を見いだすことを使命としています。学校創立後間もなく、小さなショーの上演を計画し、チラシを配った後で舞台の準備をしようとしたところ、ギャングのリーダーに中断させられました。ギャングのリーダーと揉めることは命の危険を意味するにもかかわらず、主催者側は上演を諦めず、リーダーと話し合い、ついには上演許可を勝ち取ったそうです。公演は盛大な拍手で讃えられ、別れ際にリーダーは是非再訪して欲しいと頼んできたそうです。

Cité Soleilは最も大きく危険なスラム街の一つであるばかりでなく、幾つものギャングに支配され、犯罪発生率は高く、暴力が日常茶飯事となっています。警察も手出しを出来ないこの地区に、医者や教師、パフォーマンスを行うアーティスト達が訪れ、援助を提供しているのです。彼らは住人の信頼を得ようと努力し、リーダー達と交渉し、人々に長期的な展望をもたらそうとしています。

二人を案内してくれた運転手Hyppoliteは、最も危険な場所にも度々赴いてきました。彼は国際的な報道機関や国境なき医師団のような医療組織の名前が入った様々なプラスチックの標識を持っており、いざというときはそれを車の計器盤に載せています。Hyppolite曰く、車の中に隠れたこともあれば、自分の車の前で銃の乱射が起きたため、スラム街から出られないこともありました。「止むまで待ってから外にでるだけですよ」と、まるでそれが当たり前であるかのように運転手は話します。「入場料」をはずむと、スラム街のリーダーが車のボンネットの上に座り、自分の支配地域を案内してくれることもあります。あちこちにジャーナリストや医療関係者の姿が見られます。

MarjanとLukasが訪れたChaka-Danseという名の演劇学校は、驚いたことに完全に壊れた家が教室でした。小さな中庭で約40人の生徒が指導者や監督、振付師等と稽古について話し合っているところに二人が入っていくと、皆が一斉に大きな目で訪問者を見つめます。稽古の様子を見せて貰った二人は、瓦礫の間の狭い場所を舞台とし、そこでダンスや歌を披露する人々の姿に涙を抑えきれません。二人が見た寸劇は、ハリケーンの季節を題材としていました。楽しい劇や歌の形を借りて、どのように自然災害に備え、身を守るかを学んでいるのです。ここの人達は希望と熱意を持って歌やダンス、演技に取り組んでいます。一言も分からなくても笑うことが出来たのは、彼らの演技に説得力があったから。言葉では言い表せないほどの感銘をうけたMarjanとLukasは、「今度は君達の番だよ! 国でどうやっているのか見せてよ!」と英語で話しかけてきたハイチ人の若者の求めに応じて、別れ際に”Draussen ist Freiheit”(外は自由)を披露します。Marjanが彼らにこの歌の場面と吸血鬼の話を説明すると、先ほどの若者が「それは本当の話?」と尋ね、全員が笑います。ハイチ最後の夜、Marjanは止めどなく流れる涙を抑え切れませんでした。今回の旅、ハイチは二人の心に焼き付きました。そしてきっとまたここに戻ってくると思うのでした。

二人のハイチ訪問に同行して、被災地を案内してくれた支援団体Power of HopeのDaniela Troester氏、現地で協力してくれた支援団体J/P HRO、キャンプでテントを提供してくれたSean Penn、そしてハイチの話をオーストリアに紹介し、長く記憶に留めさせるための力を二人に与えてくれたハイチの人々へのLukasとMarjanからの謝辞で、日記は締めくくられています。

Musicalhits in Wiener Originalbesetzung
2011年5月11日19:30開演
Ronacher
Seilerstätte 9, 1010 Wien
Austria
http://www.musicalvienna.at

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